Rubbish Education


Newsweekコラム『サンデル教授の哲学講義は 特別でもなんでもない』

最近ちょこちょこ見かけますよね、このサンデル先生っていうハーバードの教授。
その人についてNewsweekにうpされたコラム。これを読んでちょっと文章でも書いてみる。わりと感情論ですけどね。


うちの基礎ゼミではディベートのやり方もレポートの書き方も学んだ。
まだまだ未熟やし、ディベートなんか弁論班OBからしたらしょぼいかもしれへんけど、
一応曲がりなりにもそういうことの基礎はこの前期の間に学んだわけで。


ただ俺としても、もっといろんな議論とか、“授業で”やってみたかったなぁと思う。
たまたま俺は友人に恵まれたから、いろんな話を“趣味で”出来たけど、この際はっきり言っとこう。よほど知的好奇心があったり、暗記教育ではない学問に対して興味を持っていない限り、そういうことを趣味でやろうとは思わない。
モノ書きもそう。こういうのを俺が書き留めておくのは自分の思考整理だから、チラシの裏にでも書いとけと言われてしまったらそれまでやけども。


でも、そういう議論、いうなれば身に付けた知識を使うアウトプットの教育をするには、
それまでに知識をつけておかなくてはならない。要するにインプットであり、素材集めですよね。
それをするのに、正直に言って学校だけじゃ少なすぎる。高校までをインプット期間としてみても、どんなに優秀な高校でも多分時間は足りないと思うね。なぜかって、優秀な高校ほど、受験に必要なことを詰め込むから。そして勉強(脚注:勉強=知識を暗記、学問=知識を使い思考する)の苦手な生徒が集まる高校は、議論するレベルに達するまでの知識を教えてくれるわけじゃない。


だから、まあ、向学心の強い、とまで殊勝ではなくても、知識好奇心の強い奴しか、本当の高等教育すなわちアウトプット型教育に達することは出来ひんのとちゃうん?ということ。
勉強を義務・苦痛・めんどくさい丸暗記としか捉えないうちは、その知識を自由に使いこなすことは出来ないし、むしろその知識に使われるという滑稽な結果になっちゃうわけで。


学校では勉強の内容は教えてくれるけど、その覚え方までは教えてくれない。
それを自分で編み出せるかどうかも、結局は本人の素質次第。他人のやり方が自分に適用できるとは限らないからね。
そのためには、常日頃から「どうやったら分かりやすく(時に面白おかしく)覚えられるか」を考えようと心がけなければいけないわけよ。


これ書いてて、昔書いた学志舎の合格体験記から、何一つ考え方が変わっていないことに気付く。もう3年くらい経ってるのに。あ、欲しい方がいたらうpしますけど。


ただただ覚えろというだけでなく、初等教育のうちに、本当はそういうノウハウももっとたくさん教えなくてはいけない。
たまにそれを教えてくれる先生がいるけど、そんな先生に巡り会えたら本当にラッキーだと思う。


うん、ゆとり教育なんかやってる場合やないねんて。
せやから解決策も出さなきゃいかんね。


中学校くらいから、レポートやディベートの基礎を本当は叩き込んでおいて欲しい。
今強いてやるとしたら、国語の授業でちょっとやってるくらいか?あんなもんじゃ足りん。
もっといろんなテーマで話し合って欲しい。総合的な学習の時間(笑)でも、学級活動の時間でもいい。
授業時間数減らしたのが間違いだったね。そのせいで必要な知識すら覚えさせられてない。
なんだかんだ言ってる俺も、そういうアウトプットに関して達者なわけやないしね。自分自身ももっとやりたいと思ってる。


本当は受験のプレッシャーというか、試験に受かるためだけの勉強みたいなのをせにゃならんような状況では、効果的に知識を身につけられる人は少ないと思うんだが、まあそうでもしないと一切机に向かわないような生徒を俺はリアルに仕事で見てますからねぇ……。


まずは「勉強は楽しい」という価値観をもう少し広めて欲しいと思う。マスメディアはこういう所で力を発揮して欲しいよね。「落ちこぼれ・不良はカッコいい」「みんな平等(笑)」みたいなしょーもない考え方を伝播させるくらいなら、「学問の美しさ」みたいなのを広めたっていいはずなんだがそれをやってくれないのよね。
もう世の中そのもの、時代そのものがRubbishなのかもしれない。


俺個人の憧れとして、知識人のように(と言うのは、自分が知識人であるという自信も自覚もまったくないからww)、生きることとは何かという根本的なテーマから、もっと日常の些細なことまで、いろんなことを考え、話し、悩み、自分なりの答えを出し続けたいと思っている。それは実学的ではないから、無駄だと斬り捨ててしまう人もいるかもしれない。
しかし、そういう考え方を持つということは、演繹的に自分の行動や思想を決めるためのベースになるものなのだ。
人間は機械やないし、そういえば機械でも設計理念というもんがあるね。


付和雷同だったり場当たり的だったり後手後手に回ったり、そんな受動的な行動を取るくらいなら、最初から自分の思想というものがあって、そこに行動が伴うような能動的な生き方をしたいと思うのです。



で、ここでオチというわけでもない。
あとは『主張イコール相手の人格否定』みたいな発言もこのコラムにはあるわけですが。
それは、ある程度感情や討論者そのものの人間性と切り離した討論の出来る日本人が少ないから。
もちろんアウトプット教育が不足しているのも原因ですし、不必要な根性論的な何かがつきまとっているせいでもある(うまく説明できひんなぁ……)
俺が『たかじんのそこまで言って委員会』みたいなのが嫌いな理由もそのへんにある。偏屈が声を荒げて何の解決になるというのだろう。とりあえず落ち着け。声がデカい奴が勝つみたいな番組の雰囲気にも問題がありますが……。
日本式に何かを否定するときには、「気ィ遣い」で婉曲的に言うか、ヤジを飛ばして全否定するか、そのどちらかしかないんでしょうか。両極端やなー。
それに、人間の感情に密着しながらでもロジカル・シンキングは可能だと思う。別に感情と論理性は相反するもんではないでしょうに。極端に振るからそう見えるだけで、融合は可能なはず。
要するに、討論の中で起こったこと・述べられたことに対して、討論者自身の……立場とか身の上の安全(職場での地位とかね)を担保にしようとするその感覚そのものが誤っているのかもしれない。そこは切り離せよ!
だから立場・地位がイーブンまたは上⇒下の場合はヤジを飛ばすし、下⇒上の場合は気を遣う、意見が(結果的にではなく、最初からハネられて)通らない。そりゃ気も遣わにゃならんけど、それはこの場合ちゃうやん。
誰だったかね、「日本語は結論が後に来るからディベート向きではない」みたいなことを言ってたような気もしますが思い出せません。


でも、繰り返すけど結局そういう社会規範を作ってくれるのもメディアなんですよ。
自覚してなくても意外と刷り込まれるでしょ。「平等(笑)」とか。
人権は平等でいいんだけど、才能も出生も、見た目がカッコいいかも、自分の家庭の豊かさもピッタリと平等なわけじゃない(生活水準に関しては平等にしようと頑張ってること自体はもちろん必要なことだし良い事だと思うけどね)。本当に何もかも平等にしたかったら社会主義に戻せ。
『個性』を出すためには、その下地(例えば義務教育レベルの知識とか)は身に付けておく必要があるし、努力しないと個性も出せない。何も努力していないのに個性ってのもちゃんちゃらおかしい。そういう肝心なところすら明らかにしてくれないのがメディアなのかな……。
何か苦手なことがあってもいいし嫌いな物があってもいい。それを認めたっていいのに「個性(笑)」とか言って誤魔化そうとしてる。ウィークポイントを認めない、認めさせないから子どもも増長すんじゃねえのか?って思ってしまうよね。
そう考えるとますますゆとり教育に中指突き立ててFワードで罵りたくなってしまうから不思議だわ。


自分から生き方を切り拓き、そして何者にも抑圧されることなく話が出来る。
それは幸せなことやし、俺が思う『正義』ってのはこういうことなんやけどなぁ。