Life is NP problem.

いやあ、どえらい雪でございましたな。

結局、2月1日の夕方は何とか自宅に辿り着きました。時間的には普段の倍くらいで済んだんですけど、もう神経使うのなんのって。日本国内でもシベリア寒気団がモロに直撃する日本海側の豪雪地帯に住んでいる人とか、パリ・ダカールラリーに“2輪で”出てる人とか、WRCのスウェディッシュラリーに出てる人とか、きっとこんな気持ちなんでしょうね。滑ったらまず立て直せない。いや何度も立て直したことはありますけど、車体に対して縦方向に踏ん張る力が抜けたら一巻の終わり。ツルッと滑って、気が付いたらもう転んでる。踏ん張ってた足場がいきなり抜ける感覚に近いかな。だから、寝てる時に急に落下していくように感じるあの感覚にも非常によく似ている。
だから轍[わだち]から外れないように細心の注意を払いながら帰ってきました。クルマの交通量が多く、熱で雪が溶けてそうなルートを選びながらね。


最近は自宅から出ないせいか、何かを思うことがありません。特に哲学的なこと。人間とは何か、人生とは何か、お金とは、労働とは一体何なのか、考える引き金があまりに少ない。そんなもん自分で作れ、と言われるかもしれないけれど、最初の1テーマがないと連想して話が広がらないからね。誰でも自分の独力で生きていけるわけじゃないことは分かっているけれど、自分の人生をがこんなに難しいのなら、NP問題(nondeterministic polynomial-time problem)でもやってる方がマシか。
数学の二次試験の確率(と、例えば3次関数や指数対数の融合)なんかはいわゆるNP問題の比較的マシなやつです。つまり対象の増加に対して組み合わせの数がXの何乗とか、X乗とか、縦横均一スケールのグラフで書きたくないような増え方をする。高校の文系数学のNP問題なんて専門の方々からすれば大したことはないのかもしれない、と思うと気が楽になるけどさ。
計算じゃなくて、ひとつひとつ実験しないと分からないNP問題もあるしね。分かりやすいので言えば、チョコレートの箱にピースを詰めていくパズルとか。もっと果てしない挑戦ももちろんあるので、詳しくはSHARPの電卓開発を描いたプロジェクトXの『液晶 ―執念の対決』をどうぞ。


人生はNP問題と違って人によって解――つまり理想の人生が変わってきますからね。本当はアドバイスさえ無意味なのかもしれないけれど、それでも人間は他人の書いた本や歌の中に自分の生き方と希望を求めようとする。それも当たり前だと思えるのは、人生は一度きり、ましてやこのご時世では失敗した人間が再起を図ることすら出来ない。慎重にもなろうというものです。だからこそ他人や先人たちの残してくれた道筋を抜き足差し足でビクビクしながら辿っていくしかないのかな?“君はまだ若い。何度でも人生はやり直せる”が通用しなくなった現代だから、ハイリスクハイリターンのリスク側が大きくなりすぎて選べなくなる気持ちは十二分に分かるんですけどね。人間が輪廻してるかどうかなんて知らないけど(仏教的には輪廻は苦行であって、成仏して輪廻から脱却するのが目的らしいね)、たとえまた生まれ変わるとしても絶対に“強くてニューゲーム”は使えないからなぁ。


2月4日から俺の私立大学入学試験が始まります。まずは立命館文系A方式。翌日に同志社全学部日程。6日7日の週末を挟んで8日は同志社の経済学部、9日は立命館センター試験併用3教科型。一応国数英のチェックはしてきました。まあ、絶対に手を抜かない、途中で諦めないと自分自身できっちり心に決めているから、レベル的には多分大丈夫じゃないかな。ましてや立命館はセンターの地学がついていますから、何度も何度も言いますがやるべき仕事をやるまでです。
俺は知らないこと、経験がないことを極端に恐れる性格なのでついいろいろと考えてしまうんです。どこか出かけたりするにも絶対に下調べ、可能なら下見すら敢行しますからね。でもビビってたりしても本番は意外と大丈夫だった、ってことがよくあるんです。
立命館は高校入試で立命館守山を受けた時にも行ったし、立命館の学園祭にも1〜2回行ってるし、ぶっちゃけて言えばホームグラウンド。同志社は京都駅から地下鉄烏丸線で縦一本、今出川から徒歩1分だから行き方すら迷わない。嗚呼、なんと分かりやすいロケーションなんだろう!それでこそ全力投球で滑り止まって来られる!
というわけで、各分野の見直しはしますが悲観的に考えるのはやめにしておきます。阿部寛も言ってたじゃないですか。
“Why don't you do your best?”


他の大学はどうか知りませんが、阪大の経済学部・法学部・人間科学部・外国語学部(要するに文学部以外)の国語の試験は、70%の確率で近世(=江戸時代)の文章が出ます。しかも昨年は珍しく平安時代後期の源俊頼の『俊頼髄脳』という和歌について論じた比較的メジャーなタイトルだったので、今年はまた近世を出してくる可能性が非常に高い。これは勝つる。頼むから近世の文章出てくれよ!
俺は近世の古文とはけっこう相性がいいんです。っていうか平安時代の文章との相性が悪い。美的表現が発達してるのはわかるけど、いきなり逃避行してみたり、よく分からない恋愛をしてみたりと、まったくもって意味が分からない。逆に近世のはいいですね。分かりやすい言葉で的を射た書き方をしているから非常に理解しやすい。回りくどくて意味不明な文章のことを文学的な文章と定義付けるのであれば、俺は明らかに非文学的な文章の方が向いている。下手すりゃ今年のセンター試験のあの変態ロリコン小説より遥かに理解出来ると思いますよ。
論じる内容も多種多様で、せいぜい和歌くらいしかネタのない暇人な平安貴族連中とは違って、農業でも商業でも外交でも南蛮文化の導入に関しても、あと俺が読んだ中では書物の在り方なんてのもありましたけど、とにかくいろいろ論じている。ちょこちょこ不慣れな外来語が混ざってくるのが面白い。平安の和歌批評がその根拠自体が我々の現代にリンクしていないのに対して、近世の評論は今に通じるところがある。当たり前といえば当たり前ですけどね。
個性的で面白かったのは『伊曽保物語』、あのイソップ物語の和訳バージョンです。天竺の物語なんかもあって、なかなか近世の古文というのも面白いですよ。


飼い慣らされた侍連中は貴族の傭兵、野生の侍は代々地元密着のヤクザ屋さんですからどちらにせよ屈強な連中ばかりですが、だいたい平安の中央政府の貴族ってのはデスクワークがあるくらいで基本的に暇なので、考えることは結婚と死ぬことだけです。もっと違った言い方をするなら、恋愛するか出家するか。これ以上言い回しを変えるわけにはいきませんが、とにかくそれしかやることがないんですよ。常時夜更かし運動不足、食べ物は乾物、風呂もないし病気の治療も神頼みでまったくやる気がない。そんな世の中だから和歌でも平気で“死んでしまいたい”とか詠んじゃう。まあ実際は来世での極楽浄土行きを目標にして、現世はあくまで仮の居場所という考え方があったからこそそんな間抜けなことも言っていられるんですけどね。でも、親父との約束を守って、宮刑の憂き目に遭っても絶望した死を選ぶことなく『史記』全130巻を書き上げた漢の司馬遷が聞いたら絶対キレるぞ……。
そんなわけで、平安時代を語るうえで欠かせないのは、“霊魂”“通い婚”“ロリコン”ではないのかと思うのです。
ちょっと苦しいか。“開墾”についても語りたかったけどあまりに知識が不足している。我こそはという前途ある方、出来れば是非『へいあん!』について解説してくださいませ。


ジェロの『海雪』や吉幾三の『雪國』をウインターソングと言い張る今日この頃、冬こそバラードがたくさん作られる季節です。俺自身冬の冷たい風に吹かれたら、センチメンタルになって下手くそなバラードの1つや2つ口ずさんでしまいます。でも雨の日も同じことを言ってる気がする。
あと冬と言えばビッグバンドジャズですよね。『赤鼻のトナカイ』『ウインター・ワンダーランド』『サンタが街にやってきた』とかはだいたいジャズ調でしか演奏できないでしょ。俺のiPodを見てみても、同じことを考えていた人がいたようで、初音ミクのウインタージャズソングで『クリスマスはバイトだ!』『トウキョウト・ロック・シティ』というのがありました。っていうか全部クリスマスだ。微妙に時期が遅い……。
冬だから身体が跳ねるようなリズムがいいですね。暖まります。社会的にも、年に1回や2回は世間が浮かれてお祭りになった方が精神衛生的にいいのかもしれません。ってまたクリスマスの話してるな。年末になったらまた同じ話をふっかけてやろうじゃないの。


F1も徐々に各チームの椅子が埋まってきました。ルノーポーランド人のロバート・クビカに加えてロシア人の新人ペトロフを起用、完全に東欧チームという意味不明な体制になってしまいました。東欧マネーって宛てになるんでしょうか。
アメリカンチームのUSF1はアルゼンチン人のマイナードライバー、ホセ・マリア・ロペスを起用。ブラジリアンが4人(マッサ、バリチェロブルーノ・セナ、ルカ・ディ・グラッシ)いるなかで、モントーヤ以来久々の非ブラジル人の南米ドライバーです。
過去のアルゼンチン人には、長らく最多チャンピオン記録“5回”を保持し今でも最強ドライバーの1人に挙げられるファン・マヌエル・ファンジオや、無冠の帝王の1人で、政治への関心が高く(フォークランド戦争を受けて敵国イギリスのチームであるウィリアムズを離脱した)後に政界にも進出したカルロス・ロイテマンなど、数は少ないながらも大活躍したドライバーはちゃんといます。まるでフィンランドのような密度の濃さ。
だからマイナーなアルゼンチン国内レースの出身者とはいえ、ロペスに関しては大成するかもしれないと思っている。もっとも、新しい試みとして風洞を使っていないらしいUSF1のマシンがどうしようもないようなポンコツになっていた場合は、その期待も全て水泡に帰すわけですが。今時のレースはマシンのエアロダイナミクスとタイヤで殆ど決まりますからね。逆に言えば、そこに差がなければドライバー勝負になりますが、マシンの性能差を埋めて戦えるドライバーって、近年はアロンソルノー復帰時代くらいしかないなぁ。予算を削減しまくった小規模ワークスチームと決してトップクラスではないマシンで度々ビッグチームを脅かすアロンソ、今年からフェラーリに乗ったらきっと誰も止められないでしょう。だからこそメルセデスミハエル・シューマッハを呼んだのかもしれない。テスト初日からチームメイトを上回ったらしいし、大口叩いてたニコ・ロズベルグは立場なくしてないだろうか。


今年に入ってから酷使しているせいだと思いますが、携帯電話の電池の減りが急に速くなりました。そろそろ丸3年になりますが、このホワイトのW51CA、外装はえらくボロっちくなりましたけどインターナルはまだまだ現役です。データフォルダ容量が先代からデチューンされて減っている(30MBしかない!)のだけがマイナスですが、データ移動にせよ機能の起動にせよ処理速度が当時のレベルにしてみれば神懸かり的な速さで、今でも全くストレスを感じることなく使用できます。先代のW41CAが“伝説のケータイ”と呼ばれてバカ売れし、テレビ以外は何でも付いていると言われていたんです(2006年当時はvodafoneSHARP社製しかワンセグ付きがなかった)。microSDとか、当時まだ携帯電話に導入されていなかった分野に関してはやはり致し方ない部分もありますが。
うちの両親も使ってました。コイツがまたW51CAに負けない処理速度でね、非常に優秀。極端に個性的だったり最新鋭の機能がついていたりデザインがユニークだったりといったような奇をてらった部分はないんですが、基本的な出来が非常に高かったんです。あの頃のCASIOのデザインはもう引き継がれていません。G'z OneシリーズとEXLIMシリーズが交互に出るだけになっちゃいましたね。
あの頃のCASIOが、また戻ってきてくれればいいんだけれど。