1024は2の10乗

定時制高校がヤバいことになっているそうですな。

結論から言えば、本来は何らかの事情があって全日制に行けない人が座るべき席に、単なる落ちこぼれが割り込んできているという図式らしい。言っちゃ悪いがそんなに“落ちこぼれ”って量産可能なのかと。
傾向だけ見れば高所得者ほど教育費を割ける分だけ優等生が多いらしいですが当然イコールなんかじゃない!家が俺んちより何倍も広いのに正直アレな人とかだって実際いますしね。
原因として思うのは、学校教育が甘いというか、親が文句つけるようになってきたのよね。学校に対する親、政治に対する国民、企業に対する顧客などなど、見てると文句多すぎです。昔はその道の専門家に大船に乗ったつもりで任せとくのが普通だったのに、ずけずけとプロフェッショナルの領域に素人が足突っ込んでるっていうのもまた然り。
政治だって、小泉さんは小さな政府と、国家の庇護を離れた自由市場への国営……郵政の解放を目指しましたし、或いは派遣労働者の増加があの人のせいだという考えも否定しませんが、それは失われた10年と消費税のせいで税金が高い高いと言ってる国民のためという視点もあるにはあるんです。まあだからといって小泉さんを手放しで誉めたりはしないけど。
だいたい国民はワガママなもんで、サービスがしょぼいと税金が高いという相反する不満を同時にぶつけます。政治家が決められるのはそのバランスの妥協点であって理想ではないということをよく考えておいてあげるべきです。それでも90兆円兆の予算の3分の1くらい国債じゃなかったか。それだって国が悪い悪いといいますが、サービスを良くするなら思い切ってドンッと税金払うたる!っていうくらいの思い切りがない、ないしそうできない現状があるから国債を借りてこなきゃいけなくなるわけで。サービスを良くして欲しいなら北欧並みの高税率は我慢しろ、税金が高いならサービスが縮小しても文句言うな。理想でなく現実に許される資金のリソースが有限で、増刷したらジンバブエ並みのインフレーションに陥りかねない以上はそれが本来の政治の在り方だったんですが。
まあでも彼ら政治家の、少なくとも政党の総意としてプライオリティの一番上は政権奪還/維持と議席数の確保ですから、選挙だって両陣営ともども国民に根拠もなくクサい物に蓋をしながらいい顔をしていたことは間違いありません。まるで約束の地に民族国家を作ってやると二枚舌を使った某国のようなノリです。

で、話が脱線しましたが、親が過剰に学校に介入することで学校のレベルが下がる……ことがある、くらいにしときましょう控え目に。とにかくそれが俺の持論。
“自由”の取り入れ方とゆとり教育の導入、そして無意味な“個性”と“平等”至上主義がもたらした弊害以外の何物でもないですよね。素行不良の生徒に対しては竹刀を持ち出してでも対峙してくれる先生だって居てもいいはずなんですよ。
ゆとり教育の導入は2002年から、そしてSMAPが歌ったあの歌が拡大解釈されてゆとり教育大義名分や聖典、或いは拠り代にされてしまったのが翌年……個性すなわち他者に対するアイデンティティの獲得は生まれながらのものではなく自分の成長のなかで自分の手で掴み取るものだということは前回のプロフェッショナル論の中でお話しした通りですし、人間は生まれながらに個性なんぞありはしません。あるのは個体差であり下手すりゃホモ・サピエンスという一動物種の中でのただの誤差です。そして生まれた時はみんなサル顔です。俺はその後ウマ派に転向しましたが。

で、落ちこぼれの発生というのはですね。前回の話で人間評価のモノサシの話をしましたが、落ちこぼれというのは大抵、学校側が用意しているカリキュラムについて“いかない”人々だと思います。言い換えれば“やれば出来る”ってことですね。
でもやらない。それは誰もやらせないからであり、やらないと駄々をこねる人の重いケツを持ち上げてやれるだけのポテンシャルが学校にないからかもしれません。
得手不得手はありますが、ほとんど全ての中学生は真面目に授業を受けてさえいればどこかの公立ないし私立の全日制高校を受験するに足りるくらいの能力はラクラクと手に入れられるはずです。定時制の入学資格が甘いのは落ちこぼれのためではなく、学校教育を受けるよりも生きることを優先させてきた(この場合だけこの2つは相反する!)人々に門戸を開くためです。つまり狙ったターゲットそのものが違う。
むしろ書類審査で定時制志望者が何らかのバックグラウンドのある人かただの落ちこぼれかを判定すればいいのかもしれません。でもそれで“落ちこぼれ”が入学出来なかったらそれこそ行くところないなぁ。頑張らなかったペナルティが重すぎる。或いはコレをちらつかせることで落ちこぼれが減少するのなら仕方ないのか?だとしたら定時制にも入れなかった人は完全なる見せしめになってしまう……。しかし、中学校の教育をより厳しくかつアカデミックにすることで落ちこぼれの増加は食い止められるかもしれないから……難しいところです。


受験とはある意味壮大なくじ引きゲームだと思うことがたまにあります。いや別に今やってる勉強が無意味だというつもりはないですが、椅子取りゲームであることは確かやし、自分は最高速度で椅子に向かって走っても、あくまで重要なのは枠内での相対的順位だから絶対評価ではないし、(ギャンブルではなく、人間が機械ではない生身の人間であるがゆえに先天的に有している性質としての)変数的要素だって絡んで来ますから。そうとでも思わなきゃやってられんというのが正直に言えば本音なんですが、自分が絶対に受かると言えない以上、やっぱりそういう解釈をしてしまうのです。不安になっている証拠だと笑われたって否定なんかしません。罵られる覚悟すら決めています。
俺が普段から夢や将来といったものを持たないのは、多分それが壊れたり、実現不可能になってしまった時が怖いからだと思うんです。正直言って、どんな現実でも受け入れて対応していくためには、少なくとも俺の場合はある程度受け身の体勢を取っていないとつまづいて転んでしまいます。自分1人でどんな悪路でも突破できるような、例えばメルセデスウニモグみたいな(誰が知ってるんだそんなクルマ)精神的にタフな人間ではないんです。
自分を受け入れてくれるところが少ないことを幼い頃から知っているからこそ、周りに対して文句を言わずに自分の現実を受け入れていく考え方が身に付いてしまったのでしょうか。選びに行く前に選ばれなかったらどうしようもないのはいろいろなマイナスを抱え込んでいるから?それとも本当はそれは自分が対処できることなんでしょうか。
現実主義的で合理性を追求するのも、現実と理想(俺にとっては夢物語)のギャップに苦しみたくないからだと俺は考えます。だから俺は理想主義者、少なくともその主義を俺に押し付けてくる人とは決定的に相容れません。個人個人で夢を持つのはもちろん自由ですが、俺に振られても困るというもの。理想論だけを語ってその成功を訴えられても、俺は「ちょっと現状を見ておくれや」としか言えないんです。それが良いことなのか悪いことなのかは、今の俺には判断がつきません。

人に選ばれる選ばれないうんぬんの話は、基本的に固有名詞で呼ばれないと自分が呼ばれていると認識しない俺の性質とも密接な関係があります。誰かが呼ばれている、少なくとも良い意味で、例えば誰かに頼られているとか任命されているとかそういった時に、どうせ俺じゃないだろうと見込んで無視してしまうことがあるのです。全てが他人事に見えている感覚。コミュニティの中で何かの当事者になった経験が少ないのが直接的な原因ですが、大事な物には名前を付けるという有史以来の人間の大原則に反して名前のついていない、俺の精神と思考プロセスの根底に張り付いて深い根を張った“それ”は、ひょっとしたら俺が積み重ねて溜め込んできたコンプレックスの成れの果ての、ゴミ屋敷みたいな得体のしれないもののように思うのです。