And I Will Dream Again....

月曜日に京進行ったら休校だった愚かな俺を誰か殺してください。

土曜日に京進行ったから知ってて然るべきなんですがね。言われてみれば確かにそんな貼り紙がされていたような気もしないでもないとは思わないなんて言わないよ絶対。いやはや、チャリで駅まで走ってる最中に「あれ!?そういえば今日休校ちゃうかったっけ?」と疑いを持ち始める俺。まあ時間も余裕あるから確認がてらとりあえず京進行ったら案の定閉まってました。畜生。
言い訳をするのなら、今日朝から法事で忙しかったからすっかり忘れてたんですよ。まあ色々ありました。でも誰かが亡くなったわけじゃないから心配しないでください。
休校に関しても大々的なアナウンスやメール配信もなかったし。あと貼り紙を軽視した自分がいたことも紛れもない事実として認めましょう。
ただ同じミスを犯した友人もいました。一応「わざわざ出向いて来た俺オワタ」とはメールしておきましたが、俺がもっと早く気付いていれば「ざまぁww」とか言ってやれたのに、なんてちょっと汚いことも言ってみようか。

むしゃくしゃしたので講談社現代新書の『はじめてのイタリア語』買いました。まったく因果関係がないし脈絡もありませんが……同レーベルの『はじめてのラテン語』購入を見送ったことは未だに悔やまれますが小倉博行氏の『ラテン語のしくみ』の方がお高いけれど分かりやすいのでより俺向き。俺が図書室で一時的占有してた奴ですね。ラテン語ビギナーにはぶっちぎりのオススメです。上級者には若干物足りないように思います。
イタリア語に関しては4〜5年前にはすでに若干興味がありましたが未だに教則本の類は持っていませんでした。そんなこと言ったら音楽関係の教則本だってパソコン関係の教則本だって執筆者のための文章の書き方の本だってありませんがね。自分の力で自己流で覚えていったものばかりですから教則本を買うこと自体異例ではあります。
ただ巷に出回っているイタリア語の本ってのは旅行者向けの書籍であって、文法的理論的にイタリア語を教えてくれる本ってなかなかないんですよ。だからこそ講談社現代新書の『はじめての○○語』シリーズはめちゃくちゃオススメですね。紀新は確かスペイン語を持ってたはずです。読んでるかどうかは知りませんが……リタイアした後に(何十年先だ!)南米に移り住みたいらしいのでいやもうスペイン語はさぞかし必須でしょう。ひょっとしたらスペイン語ラテン語・フランス語・英語(米語!)に続く次の世界言語になるかもしれませんし、充分なり得ます。アメリカ国内のヒスパニック比率なんて見てみてください。
中国語は世界言語にならないと思います。使ってる人口では一番多いですが、多分広東語やら北京語やら全部ひっくるめてのチャイニーズではなかろうか。
前に少し論じたことがありますが、表意文字であり文字の種類も多い中国語ないし日本語は世界言語に向かないと思います。識字教育が難しいというのがまず第一の欠点だと思いますし、日本語の難しさゆえに海外の研究者からは仮名表記版Wikipediaの要望すら出ているくらいなんですからね。日本人でも表意文字の扱いが先天的に苦手な人もいるらしいですし。それは個性として認めることはもちろん良いんですが、やっぱり本人さんが一番大変ですよね。
韓国語から漢字が廃れて大人でもハングルしか読めない人が多いのも、ぶっちゃけて言えば表音文字(日本語と同じ音節文字っていう扱いでいいかな?アルファベットは音素文字です)であるハングルの便利さにハマった(?)からだと邪推しています。ハングルは世界唯一のフィーチュラルスクリプト(作った人が分かっている文字)でもあります。世界史取ってる人なら分かるよね。
アルファベット(ここでのアルファベットはいわゆる普通のラテン文字のつもり)も本来は表意文字だったんですが、今のAから牛の頭(∀)のニュアンスは完全に脱落しています。ニュアンスから完全に逸脱しています?どっちが正しいかな。ただこれを見て思うのは、ああやっぱり牛って大事だったんだなぁということです。大事だから一番前に来てると。


さて、さっき表意文字の扱いが先天的に苦手な人の話をしましたが、ここで言葉狩りの反論に入りましょう。一部自治体が使っている“障がい者”という表記についてです。
他人に害を及ぼすわけではないから“害”の字は使うべきではないという見解から、俺たちの草津市を含む一部自治体では“障害者”という表記を避けて“障がい者”という表記に変えてきていますが、まあ実のところあまり広まっていません。報道ではあんまり言わないことが個人的にそう思う理由でしょうが。
この変更自体が健常者主体の視点と独善的な意識による言葉狩りだと思うんです。表記が“障害者”であれ“障がい者”であれ、障害を持った方々(←この言い回しも流行ったから使ってやろう)が一番大変であり、言うなれば害をこうむっているという見方が出来ないから、“健常者である我々には害は及んでないよ〜”なんて言えるわけです。いや、医療関係者各位や介護したりしてる方々ももちろん大変ですけどね。
“障害を受け入れて”“障害を乗り越えて”なんてテレビのお涙ちょうだいの番組ではやってますが、誰だって治るもんなら治りたいわけで、受け入れずにすむなら、乗り越えずにすむなら、その方がいいんです。そこんとこテレビ局の方よろしく。
ああいうテレビで頑張ってる人は素直にすごいと思いますが、それを番組のネタに挙げてやろうとしているテレビ局であるとか、24時間テレビなんかまさにそうですが、安っぽい感動で“地球を救”おうとしているのを見ると虫酸しか走りません。もっといろんなものが走って欲しいんですけどね、感動とか衝撃とか。出来れば寒気はご遠慮願いたいところ。
俺は立場上こういうことをいろいろ思うわけですが、自分自身の立場がものすごく微妙なわけで。法的には手帳を持ってますが日常生活や体育の授業なんかは一応他の人と同じです。同じようにこなせているかどうかは甚だ疑問ではありますが。自分のメンタリティとしても実のところ定まってなかったりします。ちなみにアイデンティティにする気はありません!!
京進でやった神戸市外国語大学の2007年の前期日程の英語のエッセイのテーマが『視覚障害者と映画』だったので是非とも読んでいただきたい。膳所高生的にはそんなめちゃくちゃ難しいわけでもないし、別に膳所高生じゃない人でも関関同立クラスの力があれば多分読めます。関関同立よりはちょっと難しいけど。
視覚に障害のある筆者の映画の楽しみ方と、映画作中の“盲人のステレオタイプ”についてのエッセイです。話したいことは山ほどありますが、現実とは違う映画の中だからこその誤った傾向の1つとして、Screenwriters and director go out of their way to remind viewers of the character's blindness, because blindness is always understood as central to the character's existence.という一文を挙げておきましょう。書きたくなかったけど模範解答のダサい直訳的な日本語訳は“シナリオライターや監督がことさら強調して、観客にその登場人物は目が見えないという事を思い出させるのは、視覚障害がその登場人物の存在の中心であると理解されているのが常だからである。”
登場人物の存在の中心っておい。また分かりにくい日本語。日本語では絶対使わない日本語。これは“アイデンティティ”への読み換えが充分可能だと俺は先入観なしに判断したつもりです。まあ、機会があれば一度読んでみてください。
少しでも障害者に興味があるのなら、ルポライターみたいな人のいわゆる“感動系”を読むよりは、当事者たる障害者の方側の文章を読んでみた方がいいでしょう。かなりイージーな文体と面白おかしい内容かつ10年以上前の書籍ではありますが乙武洋匡さんの『五体不満足』はオススメです。特に読書慣れしてない人、ライトノベルでも読んでて眠くなる人、あろうことか文庫本を家の中で紛失しちまったりする人、そのくせ俺のこのTake Fiveは自動車分野以外全部読んでたりする人、もし興味が湧いたら『五体不満足』持ってるからいつでもメールしてきなさい。興味が湧かなかったらメールしなくても全然構わないから。あと失くした本と同じと思われる本を瀬田のブックオフで100円で見つけたから欲しかったら自分で行ってらっしゃい。
あ、もちろん他の方々も遠慮なくどうぞ。でも県外の方は仕方ないとは言えブックオフか図書館か学校の図書室に逝け!と言わざるをえないのが非常に申し訳ない。いと申し訳なし。