通過地点のMUSICA

前回、人間たるものこだわりを持って生きろと俺は言いましたが、大事なことを補足し忘れていました。人に迷惑をかけるのはこだわりではなくワガママだということです。

何かにこだわりを持つということは自分にとって最善の選択であるということではありますが、それは他の可能性を消してしまうということでもあります。別に量子論シュレディンガーの猫の話をしたいわけではありません。正直なところ文系の俺には物理など分かりませんし、地学と日本史選択生なので、ある意味高校生の常識である科学と世界史も意味不明です。実体や実態の見えない勉強が苦手なんですよね。
閑話休題。いくつかの選択肢が与えられているのにひとつの可能性に固定する、悪く言えば固執するということはそれに付随するマイナス要素、代表的なところではお金であったり手間であったりといった負担も自分が背負うことを覚悟しているということです。つまりちょっとくらいお金がかかろうが手間を取ろうが自分が決めたことやから文句は言わないってことです。あんまりにもお金がかかって割に合わないと思うならやめてしまうか適度なところでとどめておけばいいんやし。だから、自分の好きなことにお金を使ってお金がないと言っている人はたいてい悲愴感溢れた表情ではなく、何だかんだでやっぱり苦笑いしていたりするもんです。
自分が何か服を着たりアクセサリーを着けたりした時に、それを着用することで良かれ悪かれどういう風に見られるかを考えて、よほど非人道的でない限りあんまり文句言うなよと俺が口うるさく論じているのもこれの延長線上にありますが、まあ、自分含めて批判する側もする側なんですが、とにもかくにも理想論はどうであれ現実問題としてはそういう批判・評価が存在している以上、俺たち人間はわめかずにその現実を受け入れて対応して生きてゆかねばなりません。

しかし!!それらはすべて負担を自分自身が背負うという前提条件のうえに成り立っているものであり、その負担はできることなら1ミリグラムたりとも余所様の双肩や背中に負わせてはならんのです。現実的にはどうしても負担をかけてしまうことはあるのである程度は仕方ない部分もあるんですが、やはり迷惑をかける時は礼節をもって迷惑をかけるべきでしょう。トラブル・ウィズ・マナーズです。“ありがとうございます”も“お手数をおかけいたします”も、相手の好意に感謝する言葉というだけでなく(それは前者だけか……)、負担をかけてしまった相手に許しを請う言葉でもあるのですから。
その境界線が分かっていない人はやっぱり困ります。単なる自分のワガママに他人を巻き込んでいるだけです。巻き込まれている側からすれば“単なる”なんて連体詞を伴われるのは悲しい限りですが。


最近のマスオさんはいつにも増して俺の興味を引く話を提供してくれるので、今回は水陸両用モビルスーツ並みにヘヴィーになってしまいますが哲学の話の2つ目に入りましょう。先週末のシンガポールGPの話はしてもしなくてもいいけど、結論を一言“来週の鈴鹿に期待”で済ませておきます。

“愛にあるのは真心。恋にあるのは下心。”
読んで字の如くです。マスオさんいわく結論は、大事なのは下心の合間にどれだけ真心を持てるかということだそうな。

男女の間にはいろいろな関係のかたちがあります。ややこしくならないようにカップルと呼びますが、その間の関係はいろいろあるんです。
お互いが精神的ないし肉体的に依存し合っている関係であったり、セクシャルな要素を含まない友人同士であったり、同じ目標に向かって進む同志であったりなどなど。
でも俺が思うに、これは俺が一番尊敬するカウンセラー、故リチャード・カールソンの生き方の1つですが、カップルや夫婦というのはそれ以前に親友であるべきだと思うのです。つまり根底の部分は性別による差はないはずなのです。別に今回セクシャルマイノリティの話をするつもりはありません。個人的にはまったく抵抗はありませんが。
俺の言う親友の定義の最大かつ唯一の条件が“相互の尊敬”であることは知ってくださっている方も多いと思いますが――あんまり周りが知ってくれていることを前提にし過ぎると“夢は時間を裏切らない”松本零士みたいになってしまうのでほどほどにしておきたいと思ってはいます――、自分が友人に(≒恋人に)恵まれていないと思うのなら話は簡単で、ただし実行は難しいですが、自分自身がしっかり者になればいいのです。お互いに努力すれば、それは質の高い友情(≒愛)を手に入れるというのと同じだと俺は思うんです。
愛を友情とニアリイコールで結ぶなら(現に結んだねぇ)、それは隣人愛でなくてもいいけれど、例えば誰かに一生ついていくと思うことは性別関係なく“愛”だと思います。友愛の何たるかは俺は知りませんがね。損得勘定と愛を結び付けるなと言うかもしれませんが、愛するに足りる相手というのはやはり、尊敬できる親友の中にいるのではないでしょうか。

本質的どころか、気が付いたらこのエッセイは愛と友情がほぼ同義になっています。或いは俺の持論は無意識のうちにそうだったのかもしれません。
或いは、愛は友情の他に、多少の下心も内包していたりするとも言えます。こんなところで友情に人間の徳や理性ではなく生物としての本能をほんの少しブレンドしてやれば愛になるのかもしれません。それはあんまり本能や欲望に忠実になりすぎてがっついたりするようなことを美徳としない、俺に特有の1つの愛の形なのかもしれませんね。