お気に入りの物なんてそう大したものじゃない

7日は琵琶湖花火大会でしたね。行ってないけど。だって混むんだもん。8月8日に電車乗って遊びに出て、帰りに圧死しかかって帰ってきたことあるからね。花火大会の日だけはJRも地下鉄も京阪も増発します。
これからも花火大会は行かないか自転車で対岸(瀬田)から見ることをおすすめしますね。最後に花火大会そのものに行ったのはずいぶん幼い時……ざっと10年くらい前ですが、紐で縛られて連れられた記憶があります。犬か。

本当に、1年前の今頃が人生で一番楽しい時期のひとつだったかもしれないって思うね。何やってたかは前に書いたけど。
残念ながら今は全然楽しくないのさ。幸運にして昼飯だけはNHKのお昼のニュース見ながら紀新と一緒に食べたりすることが出来てるので友人とのコミュニケーションはありますが、やっぱり受験は個人戦です。俺みたいに馴れ合いの苦手な人間にとっては特にね。一日中机に向かって、殆ど誰とも話さない。ただそれだけの毎日ですよ。
でも6日は久々に授業あったし、7日を挟んで8日9日も土日やというのに授業。うっかり予定入れてしまいそうで怖いわ。まあそこからまた1週間授業ナシですわ。帰省ラッシュも始まって、世間様はお盆やからね。うちは早めに終わった。

日本史再まとめは江戸時代に突入。天地人の範囲を完全に突破してきました。俺は最初から上杉家の行く末を知ってるうえで大河ドラマを見てますが、人によっては知らないまま見てる人もいるやろし、そもそも今年見てる人少ない気がする。篤姫ももちろん面白いと思うけど。


月に1回か2回、みぞおちとか脇腹がキリキリと殺人的に痛む時があります。盲腸ではないんやけれども、真っ直ぐ立ってられない時がほとんど。
6日にこれが来ましたね。本屋で。黙ってるから分からないだろうが死ぬかと思った。
俺だけなのかね。消化系があんまり強くない分温度管理を怠らないようにはしてるつもりやけど。


花火がテレビ中継されてたね。1万発か。多いんだろう。多いからこそ人が来るんやな。花火大会の規模はやはり弾数やろ。
まあ、1人で見るだけなら1万発も要らないかな。ダイキン祭の花火でも充分すぎるくらい楽しいし。ああいうローカルな花火も好き。
この2つでは楽しみ方が違うと思うねんな。厚生年金会館にライブ見に行くのと、街中のストリートで歌ってる人の歌声に耳を傾けるのはやっぱり違うし。少なくとも主観的に見ればどっちもそれぞれ楽しい。
クラシック音楽のオーケストラとピアノソロの関係にも通じる。オーケストラに圧倒的されるように琵琶湖花火大会を楽しみ、ピアノの音色に酔いしれるようにダイキン祭の花火をしみじみと楽しむ。
集客や商業や経済効果の部分はまだしも、芸術的観点で見ればどちらかだけが圧倒的に優れているということはないのではと思った今日でした。


裁判員制度について。今回長いよ。

裁判員制度に対して俺は散々反対意見を唱え続けてきましたが、ついに裁判員制度史上初めての裁判(の一審)の判決が出ましたね。
この裁判員制度、誰が得するんやろ。日当こそ支給されるけど、仕事に何らかの差し障りが出ることは間違いない。やっぱり“余人をもって代え難し”――これは児童の労働に対する子役など芸能分野の例外を表した言葉だが――代われない役職の人もいるわけやし。っていうか会社側が行かせない社会問題もまず間違いなく発生するし、4日間休んで帰って来てみたら部署が変わって左遷されてたなんて嫌がらせもあると思う。量刑とかを決める討議は非公開で、一応口外したらペナルティはあるけど、それでもみんな隠し通せへんやろ。周りから問い詰められればきっと吐きますよ。
そもそも全員が客観性のある見方を出来るわけがないっていうのも俺の考え方。特に日本人はマイナスの意味で情に弱い、冷静に物事を見られないので成人だからといって俺は信頼はしていないのです。俺も他人様より優れている人間とは言わへんけど、まあ、無学でチャラついたアホな大人よりは賢いやろとは自負してる。別に勉強がどうのこうのとか学歴云々っていう問題ではなく。まあまったく無関係とも思わんが兎にも角にも成年引き下げどころか22まで引き上げてもまだ足りないと思ってるくらいやからね。大人全体を信用していない反抗期なわけではなく、二十歳を越えた人間でもどうしようもない連中はゴロゴロいるってこと……特に時代を追う毎に若者のモラトリアムな期間は延長戦気味なのでね。俺としては15を越えて義務教育が終わったら、まあまだまだ親の庇護を受けている立場とは言え、ある程度はそろそろ羽化する準備をすべきやと思う。最初から何から何まで全部完璧に出来なくたっていいし失敗したっていいんやけれど、いつまで経ってもチャラチャラし続けてられるわけやなくて、少しずつ二十歳に間に合うようなペースで大人になればいいの
さ。
閑話休題。要するにみんな法律の素人やねんから、プロと同じように裁けへんやろ、と。どうせ被害者に情が移って冷静な判断が出来ひんかったりするねん。法律の解釈の仕方もおかしかったりするねん。そういう部分の正しさを学ぶのが法学部やのにな。
日本古来からの由緒正しい伝統“声がデカい奴が勝つ”の解決も出来なさそうやし。説明は省くが一応システム的には過半数の同意が得られるようになってるんやけどな。
それに、いくら匿名と言っても世の中に顔が割れてる人はいっぱいいる。芸能人や有名スポーツ選手やなくても、何の拍子に顔が割れて報復されるか分かったもんやない。例えば俺が被告人なら、世間的に有名でなくても自動車業界関係者とか、声優とか、そういう類の職種なら分かるかもしれない。それやと匿名も意味がないしな。

で、具体的ソリューションの話。
正直言ってやりたい人よりやりたくない人の方が多いと思うねん。それなのに誰かがわめいて“裁判に参加する権利”を訴え出したら意外と通ってしまったと。参加することによる代償とか精神的な痛み(例えば今回やと遺体の写真なんか見せられたらしい。裁判員の1人は気分を悪くして交代した)もあるのにな。
中学時代に同じような憂き目に遭ったことを思い出したわ。目的もなく抽象的な某委員会を作れ作れというプレッシャーに生徒会が負け、しかも何するかは初代委員長たる俺に丸投げ。あの時は本当に腹が立った。副委員長は諸事情あって俺の卒業後に何とお上からお縄やったと聞いたしな。いや直接は関係ないけど。

要するに希望制にして欲しいんですよ。
やりたくない奴が多いことに対してわざわざ“権利”とか言うなら俺達は喜んでその権利捨ててやろうではないかと。やりたくない人が裁判員を無理矢理やらされ、やりたい人はいるのに裁判員が回ってこないよりは、然るべきところ……やりたい人のところに権利を回してやればよろしい。人間は親も生まれも選べへんし、才能さえ望む人の元にばかり与えられるわけではない。もちろん日本国憲法も才能による不平等など補完してはくれないと。当然のことだが、それに苦しんでいる人が山ほどいるというのに、こんなところでまた“不平等”を作り出してしまうよりは、こんな権利くらいは求める人のもとに行き渡らせてやるのも悪くないのでは、と思っている。
役所にお願いして都道府県毎に希望者名簿を作れば面白いやろうね。やりたい人は役所に言ってくれ!!って。
別に地デジ普及みたいに“裁判員になろう!キャンペーン”展開しても全然かまわないからさ。裁判員に何でもかんでも死刑とか言い出すヒステリックな方々の割合が若干増えてしまう可能性をはらんでいるのがいささか残念ではあるけれど、まあでも基本的にやる気のある方々が集まりますよ。たまに、自分が新世界の神もとい絶対的法律で悪人は自分の手で裁かれることで世の中は平和になるんだっていう某漫画みたいな方も出るかもしれないからまたまたいささか残念ではあるけれど、そういう場合のための多数決です。何せやる気のある人々が集まってるねんから、普通にランダムで選ぶよりはきっと質の高い討論が出来るはず。
モチベーション的にも技術的にも、志願兵の方が徴兵や投降兵よりも遥かに優れているのとまったく同じです。ましてや裁判員に命はかかってませんからね。やりたくない人にとっては本気になる理由がない。
だからこそ希望制にすることで裁判員制度も決してくだらない制度で終わることはない!むしろ史上稀にみるくらい有意義な制度に変わる可能性さえあると思ってるねんけどどうだろう。


8月8日、Take Fiveからの長い長い問いかけです。ご意見ご感想お待ちしていますね。
あ、でもバッシングはほどほどによろしくお願いします。あんまり2ちゃんねるみたいに吊し上げられると、ビーカーに差し込まれたガラス棒や温度計のように脆くて細い俺の心が折れてしまいかねないので……。