アンニュイな雰囲気は好きやけど自分はアンニュイにはなりたくない

内容とタイトルの区別……差別化をちゃんとやらなきゃいけません。相変わらず統一感に欠けているように思う。

おかげさまで春休み明けテストが何とか終わりました。明日(11日)の夜に京進の復習テストがあるからその調整だけはやらなきゃいけないけどさ。でも3時就寝・6時起床・夕方気絶とかいう生活はとりあえずおしまい。

新入生との対面式がありました。名簿1番の人が花束贈呈をしていたけれど、実はちょっとうらやましかったりする。
そして生徒会長の挨拶。学ランをピシッと決めて(←重要)メモを片手に話し始めた。しかしその途中。

突然手元のメモを破り去ってしまった。そして学ランを脱ぎ捨てていつものスタイルへと変身。メモではない自分の言葉で話し始めた。内容は“積極性を持って失敗を恐れずに挑戦してほしい”。説得力が尋常ではなかった。後の新入生代表挨拶(入試……特色だか一般だかの成績1位が述べる)が正直かすんでた。緊張してただけなのか、それくらいの力しかないのかはちょっと分からないけれど。

漠然と“何か”をやらかしてくれるのではないかという噂は流れてたけど、まさかここまでやるとは……思えば去年は生徒会長は別の人だったのだから当然の結果かもしれないがこれはやりすぎ。だから面白い。やりすぎるくらいが面白くなる好例。どうせ形式的なものなんやからそれくらいのパフォーマンスは大歓迎やね。そんな両者揃ってお仕着せのスピーチ原稿を読むだけでは面白くないやん!

続いて離任式。自分の知っている先生にあまり動きはなかったけど、国語の非常勤講師が故郷の金沢に帰ることになった。
校長先生の話は相変わらず長いだけでなくテンポが悪い。間が悪い。俺が入学した時は確か立ったままで話を聞いていたと思うが、貧血で倒れる人が出てからは座れるようになった。

その非常勤の先生は新卒ですぐ膳所高に来たらしいのだが、あまり生徒たちに馴染んではいなかった。まあ仕方がない部分もあるが、授業が頼りない、いや根本的に間違ったことを教えている、という話すら聞いていた。
若いから生徒に人気が出るという単純な構図は、もはや高校には通用しない。前にも言ったが、融通が利いて、生徒の目線が分かる人が愛されやすいのだ。
なのに!なのに!「生徒と一番近い」だなんてあんまりだ!実のところ一番遠いかもしれなかったというのによくそこまで言えるな、と。別に特定の誰かが悪いわけじゃなくて、建て前の言葉ってのは簡単に見当外れなことを言ってのけることができるのだな、と痛感した次第であります。

今年の――人生最後の――湖風祭はアーティストから離れてビジュアル(映画制作)に挑戦することにしました。ビジュアル長(リーダー)との綿密なコミュニケーションが取りやすい3年生だからこそ出来たと思う。いい意味で歯車になれる。
うちを始めとして各クラス湖風祭の役員選出が始まってるけど、知ってるヤツがどんどんビジュアル長やらブロック長になっていく。みんなすごいなぁ……。
俺は『長』って付く役職が大の苦手で、誰かの下でサポートしながら働く方が好きだったりするから、リーダーシップのある人はやっぱりすごいと思う。自分が持ってない物を持ってるわけやからさ。
膳所高内でもサポート向きの人がいくらかはいるみたいで、特定の『長』になってるわけではなくても、集団に欠かせない仕事をしてる奴がけっこういる。だからどちらか一方が極端に偉いとかは思ってないけどね。両方いなきゃ集団は成り立たないわけだから。

世間の流行りに媚びることなく、好きなものだけを追い続けてきた自分。そんな自分に対して疑いを持ったことはないけれど、最近は『マイノリティ』としての自分に疑問と摩擦を感じ始めている。

マイノリティとして生まれた自分。自分は生まれた時からマイノリティだった。どちらの言い回しでも構わないけれど……“普通”の子供が“普通”に出来ることが自分には出来ない。そんな身分で生まれてきた自分は、皆と同じであること――マジョリティ(majority、多数派)であることを早々に捨て去った。趣味も考え方も行動も、最低限の公序良俗は守るにしても、自分は自分の哲学の許に生きればいいと気付き、そうしようと決めたのが6〜7年前だろうか。

今から思えば、子供なら誰もが考えたことがあるであろう“特別な存在でありたい”という思いを、いい年して未だに引きずっているだけなのかもしれないが、とにかく俺は普通のありふれた生徒と同じであることがイヤだった。平凡とか俗物とか言われることがイヤだった。俺は俺として、他に真似されないような人間になりたいと思った。その方向性を見誤ったというのならそのことを否定はしないが、少なくとも悪い方向には向かっていないと自負しているつもりだ。

俺は変わった人間だとよく言われる。それ自体はもう長年にわたって耳が腐るほど言われ続けてきたことだから、別に言われて腹が立ったりすることは全然ないけれども、たまに考えるのは“変わっている”という言葉のニュアンスについて。
純粋に絶対数が少なくて珍しいから変わっているというのなら、まさにその通り。余計なお世話だと思わないでもないけれど、マイナスイメージはつきまとわないはず。
しかし、日本語の“変わっている”、英語の“strange”には時として、というかほぼ100%間違いなく“abnormal”のニュアンスがついてまわる。つまり日本語でいうところの異常者とか不審者みたいな気持ち悪いニュアンスがある。
それこそ大きなお世話という奴だ。プロセスが多数派でないだけでリザルトは変わらない、そういうアプローチをしているだけなのに。
自分自身もう周りと同じなんてイヤだという反抗的な精神が心の奥深く根を張ってしまっているせいで、わざわざ少数派に飛び込んだりすることが全体の3割くらいあるから、やっぱり変わった奴なんだけれども。ただ不審な人間でも危険な人間でもないっていうことをみんな今一つ分かっていないらしい。オカルトにかぶれてもいないし、特定の宗教にすがりついて生きているわけでもない(もちろん聖職者や仏門の方々を悪く言ってるわけではなく、盲目的になっているわけではないということ。ちなみに家は日蓮宗で、個人的にお世話になったのは浄土宗のお寺です)。政治思想が左右どちらかに大きく傾いていることももちろんないし、イライラしているからと言って暴れまわるような輩とは完全に別種の人間だとも思っている。皆が思うほど危険な人間ではないと自分では思っているのだ。
ただ、俺はどうやら自分の素の部分――別にこれは単純な表面上の自分の裏返しとは限らない――をさらけ出すかどうかでずいぶんと違ったように見えるらしいということを知ったのは最近のことだ。
素の自分は意外とマトモなんだが、その味付けの方向性が多数派ではない、よくある味付けではない、それだけのことなのだ。

自分が今この年代で求めていること自体は別に他の人とは何ら変わらない。つまり自分の個性を求め作り上げていくために探求しているのだ。自分探しのための10代という意味で、俺はむしろ皆と同じような人生を送っていると言ってしまって差し支えないと思っている。
ただ、その旅の最果てにある個性という目標物(例にしやすいから自分の好きなものにしよう)が多数派の範囲内に無かったり、流行の流れ(流がかぶったな)から外れていたり、知名度が低くて世間にあまり認知されていなかったりするだけなのだ。そんなくだらない障害は本当に好きなことなら、物理的に手に入れにくいかもしれないが精神的なマイナスにはならない。つまり気にしないということだ。

自分が本当に好きなものが分かっていないままに流行を追いまくる人が俺は大嫌いだ。個性だと思っているものは、実は流行をなぞっているだけということに気がつかないままに、新しいものを消費し使い捨てていく。商業的に見れば顧客として最高なんだが、今俺が話しているのはビジネスの話ではなくポリシーと個人的な哲学の話だ。
ビジネスとポリシーは相反することがけっこうある。お金を稼ぐために美徳を捨てなければならない時もある。それはある程度分かっているつもり。具体的には分かってないかもしれないけど少なくとも抽象的な言い方なら。

ただ自分が本当に好きなものならば、新しいものが単純に価値があって古いものが単純に時代遅れで悪いものだなどという考え方はとうの昔になくなっていて然るべきなのだ。だから自分の好きなものというのを聞いた時に、流行っているものをあっさりと並べる人に対して、あなたは本当にそれが好きなんですか、と疑問に思うことがたまにある。
例えば――これは個人的にも嫌いではないからこそ疑問に思い続けていることだが――、BUMP OF CHICKENが好きな人というのは自分を含めて、日本全国に山のようにいる。ただその中に、(もちろん主観的意見で構わないが)彼らのどういうところが面白くて、自分はどうして彼らの音楽が好きなのか、明確に説明できる人はせいぜい数%くらいしかいないのではないかと思っている。それは素晴らしいことだと思う。そういう説明ができる人も俺はたくさん知っている。
ただ、残りの、仮に80%とすれば80%の人間は、明確な理由も持論もなく、ただ流行っているからというそれだけの理由で流れに乗っかっている人間なのだ。皆が聴いているから自分も聴く。口には出さなくても、そういう人はすぐ見分けがつく。
付和雷同で主体的を持たないままにテンプレートに当てはめられてしまうような人間である以上、そこには個性は存在しえない。時代遅れだからなどと言って好きなものをあっさり捨ててしまうのならば、それは好きなものではなくて、メーカーや仕掛け人が作り出したモード現象の流れがそちらの方向に向いていただけなのだ。つまり世間という団体の気まぐれであって(これは流行を外側から見ている人間の見方です)、個人が獲得した個性ではない。

付き合う相手をとっかえひっかえする人も俺にとっては謎だ。そんな短期間で別れてしまうほど相性が悪いなら最初から付き合うな互いに傷つくだけなんだから、と。とにかくそばに誰もいない状況が寂しくて寂しくてたまらないから誰でもいい、埋め合わせをしてくれ、とそれだけなのではないかと思っている。普通、ちゃんと好きだと思ったら少なくとも1〜2年は持つだろう?長ければ一生だ。
早々に離婚する芸能人は何を焦って結婚したのだろう?孤独な者が寄り集まったからといって孤独が解消されるとは限らない。

大きな海流に乗ってしまえば機動力の弱い船だって遠くまで走れる。ただそのルートは決まりきっているのだから。

もちろん実際の船は航路が綿密に定められている。それは人間社会でいうところの社会規範、倫理や法律といった言葉で表されるものだ。
しかし法律は個人の趣味までは言及しない。船だってその名前や色にはある程度の自由がある(たぶん内部設備は多少決まっていそうだが)。

自由をはき違えないように、という話もしたい。最近は世情が暗いせいか、視聴者の気が滅入るのを防ぐために、成人式で暴れまわる輩はテレビでは映さなくなったけれど(映すと増長するのもあるが)、そういうのは単に無責任なのであって自由とは違う云々という話。


好きなものは何があっても誰が何と言おうと好きなままでいる。なぜ好きなのかもちゃんと分かる。そういう人間が大好きだし、俺自身もそういう人間を目指している。僕が僕らしくあるために、好きなものは好きと言える気持ちを抱き締めていたいと、最近はそんなことを思うのだ。


新聞の投書やら社説みたいに書いてみた。そのまま現代文の教科書に転載されたら面白いなあなんてくだらない妄想を交えながらね。でも生徒に変な思想を植え付けかねないから、きっと教育的に不適当な文章になりそうな気がする。俺みたいな偏屈が世間のマジョリティになったらきっと世の中はうまく回らなくなってしまうな、なんて思ってみたり。

今回はまたいつにもまして長かった。愚痴を吐いてストレス発散してるのとあまり変わらないと自分では思っているのだが。