服装の乱れは心の乱れ。一挙手一投足に人間の中身を垣間見る。偏屈なインテリの文章みたいでごめんなさい。

エレキギター騒動はひょっとしたら結論が出るかもしれません。小柿のHARD OFFにエピフォンで良さげなギターがあったからまた触ってみようと思う。
むしろ自室に鍵盤まで欲しくなってきた。うちのクラビノーバが低音域でひとつふたつ鍵盤が鳴らなくなったのでベース音が途切れたりする。



たまには真面目な話しよう。


“人を見かけで判断するな”とはよく言うけど。

俺は普通に人を見た目で判断します。


だって当たり前やない?どういう服装・言動であれ、その外見には常に社会的判断材料としてのイメージとかがつきまとってくるんやから。
つまりは、どう見られたいか、という願望を叶えられると同時に、どう見られるか、という覚悟もまた、服と一緒にその人を覆うわけ。
要するに、どんな人だと思われるかは、見られる側にも責任があるのであって、それを差し置いて“人を見かけで判断するな”なんてのはあまりに間抜けやと思う。
品のない服装なら品のない人と思われて当たり前やからね。それはファッション以前のマナーっていうやつだ。そのマナーというある程度の下地の上に“『個性』があるのは“自己主張”やけども、その基本が作られてないのに『個性』やなんてちゃんちゃら可笑しいわ。下地のない化粧はうまく行かないでしょう?


服装だけでなく、細かな言動――特に日本語の使い方については俺は異常なほどこだわる。感想ひとつ述べるにしても、その語彙や表現力や比喩の豊かさはやっぱりその人間そのものの水準の高さを如実に表しているわけで。
『ウザい』『ムカつく』『カワイイ』『めんどい』etc.しか言えない人に、一体何を求められようか。いや、何も求められない(反語)。
だいたい話してたって面白くないやないの。単純な機械のように同じ言葉ばかりでボキャブラリーが圧倒的に足りない人は頭が根本的に悪いと思うやろ?やっぱり勉強と多少リンクはしてるよね。ただし膳所高生だから必ずしもボキャブラリーが多い、とまでは言えへんねんけど。

実は膳所高は輪読会を明日に控えておりまして、この話を始めた主な理由はこの輪読会なんやけれども。この輪読会でクラスの人を見直すことも多々あるし、また幻滅することもある。やっぱりコイツはあてにならんと結論してしまうこともある。
だいたいは分別があって、後先を考えられる人は輪読会の小論文もしっかり書けているんです。自分の考えを整理してあって、詩的な美しさというよりは筋道立った文章になってる。人間的な骨組みの強さが、文章の骨組みの良さにそのまま反映されるわけさ。

語彙力と言っても、別に難読語が必要なわけやない(一般教養として必要ではあるけど)。その場その場に的確な表現が出来るか否かに着目してるだけ。ワンパターン感想からの脱出が必要やね。でもそれだけでいい。


笑い方、というのもやっぱりカギになると思う。
下品な笑い方する奴は最悪やね。自分も出来るだけ気をつけてはいるけど。そういう笑い方する連中にロクな奴はやっぱりいないって。
だから逆に言えば、俺も5分話せばだいたいの人物のアウトラインは見えてくる。それで斬り捨ててしまうことも数多いけれど。

だから俺が見切りを付けた人間には、必要以上に俺に関わって欲しくない。お互い様だろうけれど。

“あなたが私を愛さないように私もあなたを愛さないし、あなたが私を尊敬しないように、私もあなたを尊敬しない”
こんな銘文があります。考えたのは俺。
だったら銘文とは言わない。前言撤回だ。

勿体ないとあなたは私に言うでしょう。今までどれだけの出会いを逃して来たのかと。
でも仕方ない。俺だって万人に時間を割けるわけやないから見極めが要るしね。
本当に素晴らしい人は崇高な考えが表情ににじみ出てくるものだから、やっぱり一挙手一投足で分かるもの。
だから俺は他人を見た目で判断するし、これからもそうし続けると思う。そうやって俺はこれからも素晴らしい友人達に出会うことになるのだろう。しみじみとそう思う。