monologue in the rainy day

気温は低けれど相変わらずの高湿度、半袖の方が良かったかと少し思いながらも、昼食の席取りをしています。新しい端末への慣熟も兼ねて、手慰みに何か書きましょうかね。適当に書くから適当に読んでください。どうせ眠たい頭で書いた文章やし。

天候と心理状態がまるでフィクションのようにリンクするタチの悪い性格なので今は鬱屈した気分です。だった1GBとはいえバックアップを取っていなかったのでUSBメモリの中の課題もなくなってがっかり、むしろデータ作り直しの時間を考えると、恐ろしくはないけど気分は良くないです。


疲れ切ってリビングで一晩中(と言っても4時間くらい)寝てしまい朝風呂してしまった情けなさとか、考え始めるといろんなことがアタマを駆け巡ります。


昔のことを考えると後悔だけが残っている気がするし、自分は今まで何かを完璧にやってのけたことはあったかなとか、いつも考えます。
人間は皆完璧なわけがないと知ったのはつい最近のことで、それまでは皆何もかも完璧に出来るものだと思っていました。顔と名前しか知らない友人の、深いプライベートな部分を知らない状態だったからでしょうか。学校で顔を見る以外の私生活を何一つ知らないがためにそういう幻想に囚われてしまっていたのでしょう。他人への興味が薄いのはもちろん、打ち上げとかに参加しなかった(≒他人との積極的なコミュニケーションを図らなかった)のも原因だと思う。
高校の間は、自分の興味が他人ではなく自身の内的な部分やモノ(特に金銭面)に向いていたんです。ゆえに交際費やいわゆる人付き合いに対してカネを払うという概念が欠如していた。
それを今になって回顧して後悔があるか否かは自分では判断出来ません。願わくばもっと金銭的に豊かで、全てを満たせれば良かったのかもしれないけれど、現実的な見方をすれば仕方なかったのかな、とも思う。言い訳はいくらだって出来そうですし、多分それを自ら言い訳と定義することはないでしょう。


mixiは他人とのコミュニケーションツールと情報収集ツールとして“利用して”はいますが、依存心や帰属意識はまったくない、というのが俺の建て前だったりします。Twitterも同じく。俺にとっては道具だから、使い方もかなり適当ではある。この期に及んで損得勘定で考えた時に得をしそうなこと(精神的充実を含むが)しかやりたがらないのは性格が悪いのかもしれない。やらなければならないことに関してはそんなことも言っていられませんが。
依存していないということは義務感に囚われていないということで、現に俺は他人の日記類を全て読んでいるわけではありません。分かりやすく言えばmixi疲れの類とは無縁ということ。


俺が打算的にmixiに参加した理由、Take Fiveのフィールドをmixiに拡張することで本来の役割――自身の近況報告と意見主張をまとめてやることも再び多少なりとも意味を持つようになってきた。
4月に東京や大阪に行った時はmixiが活躍してくれた。これは幸運だったと思う。もし参加が1ヶ月遅ければなかった話だったから。
mixiに参加することで他人の書いたものが俺の目に触れるようになり、少なくとも他人のことを“分かったつもりにはなれた”。他人に対する文字情報的な理解と親密度が必ずしも比例しなくなって、人との関係の在り方がソーシャルネットワーキングサービスによって激変したことは紛れもない事実でしょう。


少なくとも、本当に親密な一握りの友人以外の、俺にとって得体の知れない存在であった(その原因が俺自身にあることも重ね重ね補足しておこう)ような人たちが、所詮は(?)俺と同じホモ・サピエンスでしかなかったと実感した。それだけでもこれから今まで以上に“ヒト”中心の関係を築くようになる(=孤独な人間が情報弱者としてますます不利になり独りで対処しきれなくなる!)大学生という立場とmixiは親和性が高いのではないかと思っている次第です。


mixi参加者は学生や若い社会人がかなり多いですが、それに関連して思ったことを2つ。


数百万という参加者を抱えるmixiだからこそ、各々は他人との差別化、強烈なまでのアイデンティティを確立しないことにはこの大海で埋没してしまう(動詞が噛み合ってないな)と思っています。多分携帯でちょこちょこ書いた短くて薄っぺらな文章では、他人との識別には不十分だと思う。
実は人生経験がモロに出るのがmixiで、だからこそたまにとてつもなく頭(の回転)が良さそうな人とかがいたら、何かコイツすげーな、って思いません?(特に海外在留者に対してそう思うのは自分が海外経験がないから?)
だから、みんなアホやと思われへんように必死になって背伸びするかな、とも思ってたけど意外にそうでもないのが現状。たぶんmixiアイデンティティを確立すべきという前提があまり一般的ではないんでしょうね。俺ひとりが進み過ぎてるかピントがズレてるか空気が読めてないか。以前mixiは欧米型のアイデンティティ確立には向かないと書きましたが、こうして自分自身の考えと照らし合わせるとその惨状を痛感しますよね。


Twitterの参加者の平均年齢がmixiよりもかなり高いのは、学生と社会人という立場の違い。つまりプライベートに割ける時間の違い。Twitterのフォローは必ずしも双方向ではないし、深いコミュニケーションも必要とはしない。それぐらいの深度にしないと実生活に支障が出るし、現実はともかく名目上はあくまで“大人”だから、忙しいのはお互い様という暗黙の了解も可能。
傾向的に学生はやっぱりそこら辺の歯止めがかからないじゃないですか。互いに束縛して帰属意識を無理矢理作らないと“友情”を実感出来ない人はきっと多いはず。もしそれをTwitterでやってみなさいよ。タイムライン上に私信の山が築かれるよ。


と、まあここまで書いてきて思ったけど、俺にとって他人が得体の知れない人間であった以上に、俺自身が周りから見て得体の知れない人間だったのではないかと思えてきました。元々無表情でジッとしていても苦痛ではないから多分近寄りがたいと思うし、自分から他人に踏み込まないし、プライベートもあまり話さなかったし。そりゃ怖がられもしますわな。一度馴染んでしまうとそういうことはないらしいと言われたことがあるので、既に縁の深い人にはこんな問題はないみたいですけど。
多分俺は悪循環に陥ってたんだと思う。他人を知らず他人に知られない無限ループ、それが大学に入りmixiに参加してまあ8割はリセットされたんじゃないかな。だとすれば、俺にとってもmixiに参加した甲斐があったというものです。


どこかで俺を見かけたら、あたかも竹馬の友のような素振りで話しかけてみてくださいな。他人とは意外に分かり合えるものかもしれないと、少し希望を持っているところですから。