――そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?

劇場版『涼宮ハルヒの消失』本編についての考察。ネタバレ成分を大量に含みますので服用時はお気をつけくださいませ。

シナリオや一般的批評は他のサイト様に譲るとして、俺が映画全体を通して印象に残ったファクター(必ずしもシーンではない)をピックアップしていくことにしよう。


涼宮ハルヒの消失』というタイトルがついてはいるが、実際に消失したのは涼宮ハルヒではなく、今までの人間関係。ある日突然、自分の友人がいないことになっていて、そして転校していったはずの人がいる。その他もろもろを合わせても、いるべき人がおらず、いるべきでない人がいる。今まで自分を見知ってくれていたはずの人がアカの他人になっている。それだけで本当にここまで気が狂ったような状態になることに対してリアリティがあると言ってしまってもいいのかはともかく、人間の普段の日常生活というものが、長い時間による明文化されていない蓄積と、人脈や人物に対する共通の了解、つまり大なり小なりの社会があって初めて成り立っているものだということを知るには十分すぎた。メシさえ食えれば人間は死なないかもしれないが、人間の文明生活は社会がなければ営むことは出来ないのである。


後述する葛藤の表現や冬の夜の斬新な作り方などの他にも、3DCGとトゥーンシェードで奥行きを持って描かれた教室や、オーケストラやエリック・サティの効果的なBGMも完成度が異常に高かった。サティは音階そのものが普通の曲から変わっているので一般の人には徹底的に違和感をもって聞こえるのだが、そこまで含めて音楽が非常にマッチしている。


常世界(3年前)に帰還し、世界の改変を見届けた後のキョンの葛藤について(原作208〜216ページ)。
哲学的・精神的な、いわゆる心象風景であったり、心に抱え込んだコンフリクトを抽象的に映像化するという技法、ファーストガンダムエヴァの最終2話に通じるものがある(スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』とは少し趣旨が違うかもね)。しかもこちらの方が良い意味で分かりやすい。原作小説においてもこの葛藤は自問自答を繰り返すモノローグの形でなされてはいるのだが、そこに映像による比喩を加えることによって視聴者(大半が読者だったから筋書きを知ってはいるが映画を見る価値はあったと思ったことも補足しておこう)への訴えかけの強さが二次関数的に強まっている。
原作においての自問自答はまさに自分との対話。教室の窓ガラスに映った自分が問いかける。“――そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?”(211ページ)
改変世界は、元の世界と比較して、ありとあらゆる点において二項対立だ。キョンにとっての主役が「長門」か「ハルヒ」か、世界そのものが「日常」か「非日常」か。そしてそれぞれの世界に安住するための鍵となるアイテム「入部届」と「栞」。この2つが対立関係にあることが映像として明確に提示されていて、またそれはどちらかの世界をキョンに選ばせることをも意味している。この品物はそれぞれの世界への切符なのだ。
結局、心象風景の改札機にキョンが通したのは栞だったわけだが、その後ろから、内気な少女である長門が、ちょうど12月19日の夜にしたようにキョンを弱々しく掴んで引き留めようとする。もし長門の視点から見るとすればキョンに投げかけた選択に対する答えという意味で一致するのだが、キョンの視点から見た“心象風景における改変された長門”はいわば改変世界の象徴である。ゆえにこのようなイメージになったのだろう。


本来の長門有希が用意した緊急脱出プログラムによって、キョンは元の世界に帰還するか否かという選択を迫られる。その選択が何を意味するのか、という点においての解釈も人によって違うので、ここでは俺なりの解釈を述べておこう。


ストレスと周囲からの影響によって異常動作を起こした長門が作り出してしまったもう一つの、いわば長門が知らず知らずのうちに夢想してしまった刺激のない世界。すべては調和していて、理不尽もなければ不可思議なイベントもない。そして自身の性格だけが、これまた自分の理想に合わせて“内気な少女”に変わっている。

補足1.
ついでに話し方が違う分だけ声の質が変わっているけれど、茅原実里の演じ分けは良かったぞ!改変された長門は浮ついた落ち着かない気弱そうな声で、落ち着いて淡々とした普段の長門ともこれだけ差が付くのだ。小説の文字だと文体ゆえに分かりにくいけれど。
補足2.
ハルヒは人格が変わっているようにも見えるが、高校入学後から歩んできた人生の大きな違いゆえに言動や価値観に微妙な差異があるだけで、本質的には同じ人間として扱えると思われる。


そんな世界を用意した長門キョンに選ばせたのは、「自分か、ハルヒか」だったと思うのだ。元の世界に戻ってハルヒと結ばれることを望むか、この淡々とした世界にとどまって、内気で愛らしい長門と結ばれることを望むか。第三者的に見れば、元々の性格のままのハルヒと、都合良く改変された長門有希とではフェアな勝負ではないかもしれない。しかし、ハルヒの性格は長門と違って外部的に設定されたわけではなく自分自身の経験によって自分の意志で獲得してきたものであるから、長門は自らを改変することで強引に同じ土俵に立ったと考えることも可能だとは思う。
それに、『憂鬱』におけるエンディングや、その後のキョンハルヒのお互いの信頼関係を知っている長門にとっては、エンターキー・ディシジョンは「押すか否か」ではなく「押さないか否か」である可能性もある。“普通に考えたらハルヒの方を選ぶだろうけれど、無表情無感動な自分ならともかく改変した自分と比べれば万に一つの確率で彼は自分を選んでくれるのではないか”というわけだ。


補足.
改変世界においてハルヒを選ぶ、という可能性は限りなくゼロに近いと考えられる。長門は元の世界の彼女とは異なり、文芸部でキョンに様々な面倒をみてもらうことで、次第に相思相愛になってゆく可能性の方が、遥かに高いと言ってしまってもいいだろう。エンターキー以外のキーを押すという結果そのものが、改変された長門を受け入れたという解釈をとったのだ。


しかし、キョンにとってその選択の解釈はまったく異なっていた。誰かと結ばれる自分というものが想像できないタイプなのだと考えられるし、お人好しでSOS団の皆に対して一様に優しいから、誰か一人だけを愛すること自体が有り得ないことだともいえる、そんなキョンにとってみればエンターキーを押すか否かは「日常」か「非日常」の選択でしかなかった。そして改変世界を偽りとし、元の世界の方が面白いと考えてエンターキーを押した。
ただ、キョンなりに迷いはあったようで、
“(前略)本心を言うと、そんな長門はちょっと――いや、かなり可愛かった。一瞬だけだが、このまま文芸部に入部してハルヒのいない世界を楽しむのも悪くないかなと思ったほどだ。”(84ページ)
“あいつらとはもう会えなくなる。正直、心残りが皆無なわけじゃないさ。だが連中はもともと偽りの存在だったのだ。俺のハルヒと古泉と長門と朝比奈さんではない。さよならを言いそびれたのは残念だが、俺は俺のハルヒと古泉と長門と朝比奈さんを取り戻す。決めた。”(217ページ)
といった記述もある。もちろん、だからこそ苦悩し、自問自答した末に答えを出したのだが。



第六章ラスト、甲南病院屋上におけるキョン長門のラストシーン。
このシーン、原作241ページを見る限りでは本来病室でのやりとりだったのだ。小説としては狭い空間で雑音のないシンとした空間の方が小さな音や沈黙まで描写できるのだが、映像化した場合に薄暗い病室はどう考えてもスクリーンに映えない。そこで考え出されたのがシーンそのものの屋上への移動と、実写の夜景の利用。前者に伴って会話が自然になるように微妙に台詞が追加されたりしている。この舞台変更は『消失』でほぼ唯一の変更点であり、またややロマンチックすぎるとは言え、その傾向すら功を奏していると思う。
セル画などで描写するだけではただの絵でしかない夜景だが、実写の暗い空や輝く夜景を充てることで、冬の夜特有の空気の澄んだカチッとした寒さの表現がなされている。実写か背景画、どちらが“馴染んでいる”かと聞かれたら背景画だろうが、実写とアニメの合成による質感の違和感は百も承知、どちらが“リアル”かと考えれば明らかに実写がいい。甲南病院の屋上に行けば会えるかのような錯覚すら起こしてしまう。
途中から狙いすましたように雪が(実写ではなく描き足し)降ってくるが、キョンは通常有り得ない発音で「ゆき……」と思わずつぶやく。それはちょうど、“雪”と“有希”の中間の発音。それに間違って反応した長門も思わず顔を上げる。おそらくそれもすべて制作陣は狙ってやったのだろう。


涼宮ハルヒ』シリーズは(『憂鬱』のみ小説大賞出品作という都合上、例外とすれば)明確なラブストーリーではない。キョンは人生を達観していて厭世的ながらも身内に対しては一定の博愛を見せる。何だかんだトラブルに巻き込まれながらも要するにお人好しで、実はハルヒ云々という以前に、キョンのその性格あっての『涼宮ハルヒ』シリーズだと思うのだ。前述した『消失』の選択、“In your place”、つまり俺たちがキョンの立場ならどうなっただろう。きっと人によって解釈も答えもバラバラだっただろうと思う。
キョンがこんな性格だからこそ、たとえキラキラと輝く都会の夜景をバックにしていても、服装が寝間着とセーラー服だったりしたら、余計にラブストーリーには思えないのだ。手を取って強く握り締める表面上の仕草だけならそう解釈することができるにもかかわらず、そこに介在する感情が明らかに恋愛感情ではない。
だからこそキョンなのだろうし、恋愛ではない下心のない全幅の信頼こそ長門有希にはふさわしいのかもしれない(ほめてます)。そして、「恋愛は精神病の一種」というハルヒの言い分も、ここにきて急激に現実味を帯びてくるのではないだろうか。男女間の関係とは決して一般的なカップルの形に当てはまるわけではなく、ましてや肉体関係ありきというはずもなく、組み合わせによっては信頼や父性愛といったまったく別の感情を伴うものであると、強く教えてくれる映画である。


さて、ここまで書いてきて劇中では長門の想いが果てたようにも感じるが、エンドロール『優しい忘却』の後に挿入されたワンカットを見ると、暴走して感情を知った長門にとってのこのトチ狂った世界というのも、なかなか悪くないのではないかと思う。


世界を変えるのでも自分を無理矢理変えるのでもなく、芽生えた感情のまま、ありのままに自分自身が変わってゆくことで、どんな世界だって“Such a Lovely Place”になるのだから。


 君のいるその場所が
 僕の生きていく場所だ
 どんな辛さも幸せに
 かえながら生きてゆける
 (槇原敬之『Anywhere』)