“大人”についてのメモ


自分のTwitterより抜粋、まとめ。なめーん(´・ω・`)


大学生になって、一本道からいろいろな生き方があることを知って、大人というものがすごく相対的(時に批判的)なものになった気がする。今までは、大人の言うことは絶対だったからだろうか。
大人が2〜3人いて、言うことが違っていても構わないのだけれど、その2つが強制力を持って立ちはだかってくるから“子供”の俺は板挟みになる。つまり彼らからindependentじゃないという意味で、子供。
まあ、不可抗力なんて山のようにあるよ。不可抗力だけで消去法的に自分の動き方が決まる時すら多々あるよ。他人の手を借りて当然なんて思い始めたら人間もうアカンなるよな。


やっと気付いた。大人だって人間で、エゴや思いがあって、イライラすることもある。大人と子供に明確な線引きなんてなくて、気付いたら大人になっているのか。大人の自覚というものは、きっかけなり自然になりで得るのだろうけれど、俺は小さな頃は「元服」「就職」みたいに、完全に線引き出来るものだと思っていた。ついでに言えば大人は常に見本であるとも思っていた。
実際はそんなことはなくて、人によって言うことも違うし、“間違っている”ことも多々あるのね。人間は主観でしか物事を見られないのだから。


そういえば、俺だって誰かにとっては大人なのか。俺は大人に絶対性なんてないって気付いたのが遅かったけれど、気付いてしまったことで指標を失っちゃった。人によっては大人の代わりに自分を導いてくれるものを探す。音楽かもしれないし宗教かもしれない。
そう考えると、大人と子供の関係と、神と人間の関係は似ているのかもしれない。ついでに音楽と宗教も似ているのかも。


こないだ同志社のチャペルアワーに参加したときのテーマが、「一神教は危ないか」。なるほど、神様を絶対的指標として、それに対して俺達は対話の機会を持とう、とな。互いの主張が相対的だから、柔軟に話が出来るわけやな。
その意味で、或いは前述したように規範と救済とを求める意味でも、神は必要。池上彰さんの番組で、アメリカを宗教国家と言っていたけど、国民がみんな神を拠り所にして、そのもとで頑張って生きて行こうっていう考えは、ある意味では極めて自然な行為であると思う。
むしろ日本のほうが、あっちこっちの宗教に首を突っ込んでふらふらして、自己主張しないことを美徳としていて、どうして今までうまくやってこられたのか不思議なくらいだ、という錯覚に陥る。錯覚ではなく実際そうなんだけど……。
日本の「神は死んだ」わけではないはず。社会規範こそが神? 武士道もしくは調和・協調性。日本の心のよりどころ、神とはそんな感じ?


大人になっていく。

 1年ぶりのライブ

京都は鞍馬口hanare×Social Kitchen
アコースティック軽音サークル『P.S.』でぼっちでライブしてみた。そして大破した。
幾多のミスと、自分でもミスなのかアドリブなのか分からないものの数々。HAHAHA!
歌詞はともかく曲名を間違えたのをあとで気付いたのは秘密。

えー、というわけでやってみましたの。キーボード弾き語りで(これが珍しいらしい……俺にとっては出発点)、3.5曲くらい?
その1、I for you/LUNA SEA
これをやると言ったときの、「ちょwwおまwwLUNA SEAとかww」というリアクション欲しさにやりました。元々は某名門高校で結成されていた「Be-minor」というバンドのレパートリーだったんだけど、それを見てパクった!

その2、ベルベット・イースターピカデリー・サーカス/松任谷由実
『YUMI MATSUTOYA CONCERT TOUR 2009 TRANSIT』の1〜2曲目で披露されていた、1曲に繋げたVersionをやってみる。
もう少しメジャーな曲にしたらよかったかな?

その3、君は僕の宝物/槇原敬之
初期(『僕』三部作)のマッキーの中で俺がいちばんの名曲だといえる曲。
これは昔からの手癖というか、歌い慣れた曲だったのでセレクト。



ステージはこんな感じでシンプルに。ステージって言うかワンスペースですね。
もっと大阪ケイオスカフェみたいな感じを最初は想像してたけど、それはそれ、これはこれ。
より簡素に、なおかつお安く、という感じ。本当に簡素だったけど、そのprimitiveさが欲しくて俺もP.S.に来ましたので。



P.S.の特徴の一つであるソーシャルメディアについて、どこまで深く話そうかと思ったけど、極めて単純なところにとどめておこうかな。
Twitterで地理的要因に左右されずにコミュニケーションが取りやすいとか(そもそもP.S.を知ったきっかけがそれだったのだ)、そういうことは前々から感じていたけれども。
でも今回何が嬉しかったって、会場に来られなかった人とか、他大学の親しい友達がUStreamを見てくれていたっていう、それが何よりも嬉しい。
はっきり言って、他サークルのライブって見に行きにくいしね、それが気軽な形にオープンになるっていうのは、ものすごい革新なのかもしれない。
この1年で、坂本教授Ustream)や『すくつ』(PodcastUstream)みたいなインターネット配信のものにお世話になってきたから、終わって何を思うだろうかと考えたが、実はこんな単純で無邪気な喜びだった、というオチ。
特に前者は、P.S.に俺が入った時期と、#skmtsプロジェクト(前述のリンク先参照)が動いていた時期とがほぼ同時だったから、概念というか思想的にものすごく強い影響を受けたと思う……会場セッティング的にはやや違うかな。



P.S.でライブする、までとりあえず行き着いたので、ここまでの、人の運命の話
入学当時とんがりぼうしに入ってアンシャンテ⇒テトラポッドとバンドをやって、最後までレジスタンスを続けたけど結局ライブできなくて、それをきっかけにして資金的な問題や自分自身の思想・嗜好、身動きの取りやすさなどいろんな理由でP.S.に移籍した。最後ギリギリまでとんがりに残るつもりだったけど、今となってはサークルを移ってよかったと思う。
それが、遅かれ早かれP.S.に移籍したのであっても、テトラポッドを締めたあの瞬間で移籍できたことは、とんがりぼうし内で俺の立ち位置が泥沼化しなかったという意味でラッキーだったし、ましてやもし去年の12月にテトラポッドできっちりライブしてようものなら、今の俺はどうなってたか分からないもんね。そう思えば、ライブ出来なくて良かったのかも、と今では思う。
人の運命は本当に分からない。同志社に来たこと自体、高校3年生になるまではありえない可能性だったわけだから。


相互認識について
P.S.ではTwitterでのニックネームが通名になってるからか、なめくんって呼ばれる機会が増えたなぁ。人間が他人を認識するだけなら本名(フルネーム)って大してインポータンスはないのかもしれない。例えば「土佐守」でも、「リリー・フランキー」でも。一定コミュニティー内で(俺の場合はどこに行ってもだけど)他の人と区別出来ればいいんだから。究極的には番号でもいいんだろうがそれはさすがに味気ないww
っていうかどこに行ってもそう呼ばれるように仕向けたのは自分自身なんだけどね。
ただ、HNのもとである苗字が、自分で得たアイデンティティではなく、完全に偶然の産物で手に入れたものでしかないというのが唯一気に入らない。
それでも、人と違っている(それを認識の材料とし、覚えてもらうための目印にする。良い悪いの限定はない)ことを成立させるだけでも大変だと最近は思っているのに、ましてや「突出している」状態になるのって、やはり難しいのだなぁ。


オンラインでよくコミュニケーションをとっていても、顔を合わせたのはライブの日が初めてっていう人もいた。
オンラインだけの状況をなるべく早く打開したいから、可能なかぎりP.S.のイベントには顔を出してるんやけどさ。
その違和感というかギャップというか矛盾こそ、ソーシャルメディアを利用して積極的にコミュニケーションを図る(すなわち、忙しくてサークルに時間を割けない、行けない人が疎外感を感じないような)方法が実践されている証拠なのだと思うのです。
なんていうか、授業サボってまでサークルにどっぷり浸かってる奴が得して、真面目に両立させようとしてる奴がバカを見るってイヤやん、と。


そして、サークルはまだまだ続けられそうです。趣味は無理なくsustainableである事がいちばん大事であると思ってるし。
先輩のご厚意で声をかけていただいたので、早速次の計画の準備にじわじわと入っておりますです。